大村はま先生との思い出を綴ったエッセイ② by 早川哲雄


「孤高」

 

はま先生は朝いつもバッグや資料の荷物を両手に下げて、一番早く学校にやって来た。荷物を両手に持つのが身体や歩行にバランスを与えていた。少しの段差でも必ずその前で立ち止まってゆっくりと前へ進んだ。石川台中学校に勤務した数年の間、いろいろな教師仲間や後輩・教え子などが先生を囲んで通り過ぎて行くのを見た。

 

先生の荷物を黙って下げて行く人もいる。段差を前に立ちすくむ先生におかまいなしにお喋りする人もいる。本当に遠いところから勉強しに来てるんだなぁと思う人もいた。職場では総じて別格という風に遇されていた。しかし男性教師も女性教師も中堅以上になればなるほど敵意を持っていた。

 

先生のひたすらに走り続ける態度にはあいまいさがなかった。非常にはっきりしていた。一生懸命にする・しずかに・穏やかに・けれど余裕を持って・揺るぎなく・厳しく・激しく、いろいろな姿があいまいさというものを退けて「百門のテーベ」のような威容に届いていた。なまけ者や努力をしない教師、なれあいや体面だけの教師は、結局、人を教えることもみちびくことも共に語り合うこともしない。はま先生の態度は人としての優しさや、愛や人類としての夢や希望や、可能性を信じる心から来るものだから同じ言葉を口にしても心から信じない者は、そのように生きることはしない。先生は自分の荷物を自分で引き受けて歩いている。職務の上での教員とはまったく別のレベルで教師というものの姿を、しかも極限まで清みきった〝師〟というものの姿を、生涯を貫いて示すに違いない。

 

石川台の現業の労働者の一人として、少し離れたところから私はそのように感じていた。はま先生の活動に対して教室の使用を許さない・スリッパやゲタ箱の使用を許さない・時間の厳守をことさらに強いるなど。さらには学年の持ち上がりを当然に想定した学習指導を二度も三度も一年生に振り当てることで不可能にさせてゆくなど、およそ目にあまるような現場の「いじめ」があった。どのような場面でも同じであろうけれど、特に教育の現場では、決してあってはいけないことがそこにはあったし、たぶん教育界の多くは今もああしたそこにいてはいけないような人々によって構成されているのだろう。そんなことはないというには、あまりにもはま先生の孤高が深かったように思う。

 


「焼き魚」

 

『憩』という焼き魚の店は、人一人がやっと昇れそうな、急なコンクリート階段を真っ直ぐ上がった二階に、バラックのような薄暗い電球が灯った店である。ホテルのロビーでさえ、杖やエスコートの手を必要とするはま先生を、こんなとんでもない階段の、前と後ろから押したり引いたりして上げたのは、誰か国語教室の方が見ていたなら目を剥かれるほどの暴挙に違いない。けれどそこでは、私と素子さんだけだから先生がいやと言わない限りどんなことでも無謀とはならない。

 

その居酒屋では明治の汗や体臭を漂わせながら座っていても奇妙には映らないし、盛大に焼き魚から立ち上る煙のすごさに、一切の虚飾をはずされてしまう。飯場のようなところであった。私たちはビールで乾杯し、50センチはあろうかというキンキの焼き魚やナメタカレイを食べた。それは料理と呼べるものではないし、ジンギスカン鍋などといった得体の知れない植民地料理とも違うが、圧倒的な北の海の強靭さ、ゆたかさを味わわせてくれるご馳走であった。

 

そこで私たちは、久しぶりの再会を心から喜んで、いつものいろいろな身辺のことについて、先生のお話を聞いた。イエスの生涯が示す意味についても話した。そしてたくさん食べて、たくさん話をして焼き魚の匂いを身体いっぱいにしみ込ませて、郊外のホテルに帰った。車の中で、何かの話の最後に「あの戦争で、なにもかも滅びたんです」と先生が言った。その時の"滅びた"という言葉のひびきには、今思い出してもどこかにつかえのようなものを感じさせるものがあった。